右腕の進化

3週間前のこと。
気がついたらうたた寝をしていた。右腕が痺れている。たまにあること
だが、今回のはどうも様子がおかしい。
肘から下がひどく痺れていて、押さえると痛い。手首から先はだらりと
下がったまま、自分の意思では全く動かない。指は、握ることは
できても伸ばせない。
調べたところ、どうも橈骨神経麻痺というもので、睡眠中になって
しまう例が多いようだ。

難病でなかったのは不幸中の幸いだが、この右手で何かと不便な日々が
始まった。お箸やペンが持てないのはもちろん、マウスやキーボードも
使えない。フォークやスプーンでさえ、思うように口元へ運べない。
髪を結わえるのも紐を結ぶのも無理。
バレエのポールドブラは、右手首から先がぶらんと下がったまま。
上腕の筋肉でアンオーに持って行けば、手首から先がごろんとひっくり
返ってみっともないこと甚だしい。右手がうまく動かないというだけで、
ピルエットなどの回転までやりにくくなったように感じる。

3週間経って、手首はなんとか治ってきた。指はまだ伸ばせない。
ただ、この三週間は希有で興味深い体験をしたといえる。
完治までにはまだまだ時間がかかりそうだが、一日一日、昨日よりは
ましになっているという実感がある。それは、不自由な手首や指を補う
動きの工夫に馴れていくのと、神経が届いていない筋肉の近隣の筋肉が、
フォローする度に筋力を増していくせいもあるだろう。

それとは別に、快復がきちんと順序立っているところが興味深い。
先ずは、手首の動く角度がすこしずつ増えていく。その次に、親指から
順に指が戻ってくる。赤ちゃんが成長していく過程のようでもあり、
人間の進化の過程を辿っているようでもある。
こうして、昨日できなかったことが、きょうはできるようになる。

失った機能を取り戻しているに過ぎないが、この歳になって成長や
進化の楽しさを味わえるとは。

 

右股関節の一回忌

あれから一年になる。きょうは右股関節のミギーの一回忌だ。

前日の朝、自家用車で病院まで送ってもらった。
暖かい朝で、車窓からはあちこちに開花の進む桜が見える。
こんな一首を詠んでいた。
洛中の桜の名所すり抜けて目的の地は入院病棟

当日。手術室には8時半頃入室。自分の足で、病室から
よろよろと長い廊下を歩いた。
激しい痛みが、ミギーの最期の叫びのようだ。
脳裏には眠れる森の美女の曲全身麻酔行きわたるまで

新型肺炎の流行が懸念され、入院患者は家族との面会も
制限され始めた頃。

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さて、3日前に携帯の機種変更をした。ようやくのスマホ
役目を終えたガラケーは、もう赤や青のランプが点滅する
こともない。
10年の付き合いだったから、人生の何分の1か。

右股関節のミギーと過ごしたのは人生の半分以上。
新しい人工関節は、奇跡的に長持ちして私の寿命に最期まで
付き合うとしても、あと56年ということはまずないだろう。


一年経って、手術したのを忘れるぐらい……ということはない。
普通にどんどん歩けるようにはなっているし、むしろ手術前より
よほど活発な生活を送っている。
ただ、関節周囲の組織の硬さは完全に解消されたわけではないし、
可動域もまだまだだ。開脚でもスプリッツでも、人よりよく
開く方だったのが、いまは「ただの身体の硬い人」。
付根の伸展も不十分で、ちょっと気を抜けばお年寄りのような
歩き方になる。レッスン場でのリンバリングは心が若干苦痛だ。

一年前は、バレエ復帰だけでも御の字だったのに、それだけ
欲が出てくるほどに快復したといえる。

傷口は、当然すっかりふさがっているのだが、見ればすぐに
わかる痕がある。これは、消えなくてもかまわない。
ミギーのことを忘れないでいられるから。

初詣

昨年の元旦は、家族4人で初詣に出かけた。いや
3人+1人か。足を引きずり、無理矢理ついて行った。
鳥居をくぐってから拝殿までの距離は、とてつもなく
長かった。

今年は一人、自分の足で家から30~40分かけて歩いた。
家族と一緒に歩いていたとしても、もう同じ足取りで
遅れることなく参道を歩いていたに違いない。

段差を下りるとき、いつも戸惑っていた。
右足から下りることを頭の中で確認してから、慎重に
足を置き、その横にもう一方の左足を揃え、これで一段。
いまならおしゃべりしながらでも、気がついたら階段は
下りている。

昨年の一月二日は、家族で四条界隈に繰り出した。
初売りの店をはしごして、方々で福袋も買った。
ただ、荷物は持てず、歩行者天国の一番端っこを、
よろよろと歩いていた。それでも家族の背中を見失わ
ないよう、汗だくになって追いかけた。

今年なら、両手に荷物を提げながらでも人の波にうまく
乗り、繁華街を歩き、電車に乗れば誰かに席を譲る
こともできただろう。
しかしながら、今は世の中自体がそれどころでは
なくなってしまった。

何か、取り戻したいものが残っているような気がするのに。

パンドラの箱

「バレエ・パフォーマンス」の本番からはや三週間。
一年前の自分にはとうてい予測し得なかった状況が、
いまここにある。

・ソロでバリエーション(ペザント)を踊ったこと
これは、感染症について未知の恐怖が蔓延した結果、
密を避けるプログラムとして、チャンスの方から
飛び込んできた。

・そもそも再び舞台で踊れたこと
出演を見送らざるを得なかった夏の発表会が中止と
なり、特別に設けてくださった晴れ舞台「バレエ・
パフォーマンス」が、私にとっては絶妙のタイミング。
発表会は今夏あらためて実施予定で、すでに出演
申込済み!

・またポワントで踊れるようになったこと。
動かしても痛い。立つだけでも痛い……毎回の
レッスンが拷問になっていた昨年の今頃は、
あわよくばレッスンを再開できたとしても、
もうポワントは履ける気がしなかった。
手術後は手術後で足の長さの左右差に愕然とし、
さすがにポワントまでは無理かとあきらめかけて
いた。

舞台は、いつもそこにたどり着くまでが一苦労。
だからこそ、決して諦めないことが大事……と
いうよりそれは、はしたないほどの執念深さ。
パンドラの箱の底にたった一つだけ残っていた
「希望」
そうして、ひとたび舞台の上に出たならば、
箱から飛び出していったすべての自分がここに
全員集合する。

リハビリがてらの山登り

思えば、関節の負担を減らすために杖を使っていたのが、
裏目に出たような気がする。痛みがひどくなるにつれて杖と
左足に頼るようになり、右の筋肉はみるみるうちにペラペラに
なった。レントゲン写真で見る骨も色が変わっていった。
なんとか自力で手術を避けられないかと焦り、筋トレ、鍼灸
マッサージ、電位刺激、湿布、サプリなどいろいろ試したが、
痛みは増すばかりだった。

いまは、月2回のリハビリ通いに加え、リハビリ応用編として
山登りにも出かける。山は、確かに下りで関節に負担がかかる
といわれるが、骨盤の傾きに注意して少し重心を後ろに移すと
よさそうだ。衝撃を和らげるため、できるだけ足の裏全面で
着地。普通の平坦な床とは歩き方を変える必要がある。
その上で、着地の衝撃は瞬時にできるだけ腰回りの内側(骨側の)の
筋肉で受け止めるように意識する。

上りは、付根が伸びるのでストレッチになる。踏み込んで斜面を
上がるとき、筋肉はランジのトレーニングのように使われる。

足首、膝、股関節。足のそれぞれの関節はお役目が均等に
分担できるようにする。いずれかの関節だけに偏った負担が
かからないよう、サポーター類は筋肉をサボらせるのではなく、
関節の負担のバランスを取るために利用すれば良いと思う。
歩きすぎて痛みを覚えたら、むしろ付根を伸ばし、腰を内側の
筋力で締めるようにして歩けば楽になることもわかってきた。

こうして、一日の足の疲労が翌日に残らないようになってきた。

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振り出しにたどり着いた年

痛み止めを入れていたポーチに、あめ玉を入れて歩く術後8ヶ月半。
発表会に代わる「バレエ・パフォーマンス」本番まであと10日。

関節のひどい痛みから解放されただけでも夢のようだったのに、
いまなお、できることが徐々に増え続けている。しゃがむことも
できるようになった。折に触れ、右足を使っている実感がある。

実のところ、左足も要手術の宣告は受けているので、今後徐々に
痛みがひどくなっていくのかもしれないが、この半年の間に自覚
症状レベルでは、改善してきているようにも感じる。

手術前は、手術をしてしまうともう終わりかもという諦念があった。
人工関節の寿命問題。脱臼の危険。手術によって人工関節であるが
ための禁忌に直面し、一生できなくなる動きがある。
一歩一歩のひどい痛みから解放される。それだけが手術のメリット
だと、藁にもすがる思いで決断した。

前屈等無理な動きをすれば脱臼の恐れはあるが、付根の伸展、開脚、
背筋……可動域を少しでも元に戻したい。だんだん欲が出てくる。
そうして基本に帰着する。

いまだから言葉にできるが、昨年の今頃は、毎回のレッスンが苦痛で
仕方がなかった。実際に一歩一歩が痛むので通うだけでも一苦労だが、
精神的にも苦痛は大きかった。やればやるほど下手になっていく。
とことん下手になって、踊ることは一生無理になるだろう。
「もう、これで最後にしよう」と思いながら、レッスン場で
よろよろと1時間半を耐えていた。「いま辞めたら一生踊れなく
なるのだ」という絶望感だけが、逃避を引き留めていた。

あらためて、基本から見直したいと思ういま。
手術はむしろスタート地点へのワープだった。

11月2日 月曜 雨の朝

いま、自転車を外に出してきた。
不要品として引き取ってもらうために。
30年近く乗ってきた自転車。不要品だなんて言いたくはないが、
もう乗るに耐えられないのだから仕方がない。
散々お世話になった自転車が、いまは不要品の張り紙ごと雨に
濡れている。結婚する直前の秋に、父が買ってきてくれた赤い
自転車。
結婚して見ず知らずの土地で、引出物を郵送するための大きな
クラフト紙を前かごに積んだまま転倒した。このとき膝に負った
傷は、いまなお黒ずんだままだ。
子どもができて、前の「子供乗せ」に長女を乗せていろいろな
ところへ行った。農道の先の小さな川に、見事な白鷺が降り
立っていた。
そのうち次女が前に、長女が後ろの座席に座るようになった。
前カゴにはスーパーで買った牛乳や、たくさんのものを載せて、
長い上り坂を一生懸命漕いで上がった。
保育園の送り迎えも、行きは長い上り坂。秋には川べりに
彼岸花の列が見えた。
3人でちょっと遠出をしたこともある。郊外のベーカリーカフェ。
清水寺、嵯峨野、洛西。あの自転車で、どこへでも行った。

26インチのタイヤはとにかく一漕ぎでぐんぐん進んだから、千里の
自転車と呼んでいた。

地域のイベントでは、たくさんの道具を前にも後ろにも積んで
模擬店のブースまで運んだ。
雨が少しぐらい降っていても、バレエのレッスンには自転車で
通った。
陸上部の次女の大会が近づくと、朝の暗いうちから嵐山まで
ランニングの伴走に出た。

二十何年も乗り続けているうちに、もう何度パンク修理に持って
行ったことか。2~3回に一度ぐらいはすり切れたタイヤごと交換
してもらった。その度に、新しいのを買う方が安いけど……と
思いながらも、そうはしなかった。

五十を超えて右股関節の痛みがどんどん進んでも、自転車でなら
どこへでも行けた。最寄りの駅まで歩いて行けなくなってからは、
駐輪場の「思いやりスペース」に駐めさせてもらい、そこからは
駅までなんとか歩いた。
そのうちに、とうとうペダルを踏む度にカタカタとけたたましい
音を立てるようになり、修理に持っていくと、もう寿命だから
直せないと宣告された。

ボロボロになった右股関節を追って、自転車もボロボロになって
いた。

……9時10分頃、軽トラのおじさんが外の自転車に何か札を
かけて行ってしまわれた。外に出て確認すると「本日中に必ず
回収いたします!」の札。
ちょっと安心なような、やっぱり後ろ髪引かれるような。
だからといって、もう引き戻すことはできないのだから。

出かける時刻になり、札がかかったままの自転車の写真を撮って
出かけ、午後1時頃家に帰ったら、自転車はもうなくなっていた。

3月に逝ってしまった右股関節のミギーと、今頃一緒にいるのかな。